会員の雑感(1)

会員各人が里山を整備するにあたり、感じたこと・思いついたことを書き並べてみました。

     『下見里山を散策して(1)』

 ご縁があって下見里山の遊歩道を整備される皆さんに誘われ, 作業の後ろから付き従うようにして下見の山や地域を遊歩させていただき, いろいろな知見を得ることができました.

(1) 【西条盆地と下見里山】  下見に移り住んで最初に知ったことは,下見地区を含む一帯は西条盆地と呼ばれ, 太古には西条湖と呼ばれる湖だったということでした.
確かに下見の周囲を見回せば外輪山と呼んでもよいような 高さの揃った山々が囲むように連なっています. 素人推測すれば,かって西条湖の中に小さな島々が浮かんでいて,水が引いた後の島々の姿が今見る下見の山々ではなかろうかと思われます. 下見里山には峠などと呼ばれる箇所が無いことはもっともです. 街道は山を避けて山裾に作れば良いだけです. 一方,下見里山の山頂からは盆地全体を一望できることから戦国時代に山城や砦(とりで)が作られた ことも納得できます.鏡山城跡,八幡山城跡,二神山城跡などが知られ,下見里山は城跡フアンに は興味ある地域であると聞きました.
因みに,生まれ故郷では他郷に行くには峠を通り山越えするか,下って海辺近くの平野沿いの街道を利用するしかありません.

(2) 【下見里山と中国山地の地質】   私が下見里山の中で最初に登ったのは『ががら山』でした. 山登りして最も驚いたことは,藪や木々の間を通り抜けてもうすぐ 山頂というところで,巨岩が目の前に立ちはだかり,それをぐるっと 回って頂上に達しなければならないことでした. 標高が400mもない山の山頂付近に岩肌がむき出しの巨岩が存在するのは 故郷の山歩きからの経験では信じられないことでした. 岩がガラガラといつ落ちるかもしれないから『ががら山』と昔の人が名付けたのだろうと勝手に納得して下山したものです.
ところが次に登った鏡山の山頂付近でも城壁の一部に利用されたに違いないかのような急勾配の大きな岩崖を見ました.
後に宮島の弥山(みせん)に登り山頂が完全な岩山であることを見分し, 山頂の岩石は瀬戸内海を囲む山地全体の特徴だということをはっきり認識しました.
調べてみると,瀬戸内海を囲む一帯は風化しやすい花崗岩の地層からなると書いてあります. 地学的な長い年月の間に,固い岩石だけが山頂付近に残留し,ほとんどの岩石は砂粒に砕けて 崩れ落ちたようです.この赤み帯びた砂粒からなる土は『真砂土(まさ土)』と呼ばれ,この地域一帯の 表層を特徴付けているそうです.

(3) 【ため池】  下見の地形図を見ればまず驚くことはため池の数の多さです. 大きな河川のない盆地での水田耕作の苦労がしのばれます.
放置されたため池の決壊により新興住宅地が土砂流に巻き込まれるという災害は 全国的に頻発していますが,地形的に下見里山は山が浅く, 上流から大量の水が鉄砲水となって押し寄せるという心配はなさそうに見えます. さらに,鏡山公園そばの奥田大池をはじめとして多くのため池は よく整備管理されていることに感心させられます.
私の故郷にもため池が散在していますが,地域の過疎化がすすみ新興住宅地などは関係ありません. 山裾の休耕田は今はただススキが生い茂る荒れ地になり果てています. 道路が拡幅され新道が開通し多くの人が移り住み活況を呈せる下見地区を 故郷の人々が見たらきっと羨ましがるだろうと思いました.

(4) 【表層崩壊】  ため池の決壊の恐れは無くても,西条盆地の山々の表層は風化した花崗岩の砂粒からなるため, 集中豪雨のとき,谷筋に沿って山の中腹から土砂崩れが生じ木々がなぎ倒され, むき出しの砂地になってしまう災害が生じています.
鏡山でも公園側に2カ所土砂崩壊の跡を見ました.その1カ所は未だに大きな砂袋を 並べて砂地の拡大を防いでいるままになっています. また,陣が平山に面するブールバール(大学通学通勤道路)の一部車線が土砂崩れで 通行止めになったことも記憶に新しいとこです.
さらに,里山の山頂から外輪山を眺めると,所々に山肌を 大きな爪で引っ掻いた傷のような表層崩壊の痕が観測されます.

(5) 【放置林】  下見里山には,公園として管理され桜をはじめとして様々な木々が植えられた 『鏡山公園』と『三ツ城公園』があります. さらに道脇に桜,梅,紅葉などが植樹され健康のための登山道が整備されている二神山があります. それ以外の山地はただの雑木林だと思っていました.
実際に山歩きして,かって用材のために植林されたと思われる場所を 鏡山と八幡山で見つけることができました.しかし,安い輸入材によって日本の林業が 衰退し,多くの地域で植樹の後の手入れがなされず放置林化していると聞いていましたが, 下見でもその通りでした.間伐などの手入れが全くなされず,木々は細く, 周囲は薄暗く,茶褐色の杉や檜の落ち葉が地を覆うだけの所になっており, 雑木林より寂しい場所に感じました.
私の卒業した中学校の裏山は学校林でした.戦後復興をめざして杉が植林されており, 年に1回,男子は鎌(かま)を持って学校林の下草刈りをさせられました. 校舎が木造から鉄筋に変わった現在, 学校林はどうなっているだろうかと考えていると思いは昔に飛びます.

(6) 【竹林の拡大】  竹製品が日常生活の中から消えたせいで,竹林が管理されなくなったと聞いています. 竹は繁殖力が強く,竹の根が地表を這い回り近隣の樹林を竹林に変化させていきます. 竹が密に生えた竹林では太陽光が地面に届かず背丈の低い草木はすべて枯れ, 荒廃したような場所になります.薄暗い中を厚く積もった枯れた竹の葉を踏み歩くのは 地面の高低がわからず足首を捻りそうになるときがあり,歩いていても楽しくありません.
下見里山でもあちこちに荒廃した竹林が目につきます.片側が竹林となっていた鏡山の登山道で, 道の下をかいくぐる竹の根を見つけ,もう一方の片側の広葉樹林の中に数本の竹を見つけたとき, これから先が予感され暗い気持ちになりました.

(7) 【老木,巨樹】  山野を遊歩する者には,檜(ひのき),欅(けやき),楠(くすのき)などの 大きな老木に巡り会うのは,名前を存じ上げぬご先祖様に突然お会いしたような 言葉で言い表せない懐かしい気分になります.
故郷の村々の神社の境内には必ずといっていいほど老いた巨樹が大切に守られていました.
残念ながら私が歩いた範囲の下見地区ではこれはと思う巨木に出くわしたことがありません. 真偽のほどは分かりませんが,戦時中,呉での軍艦建造のため役立ちそうな 呉近隣の大木はすべて伐採供出されたという話を聞いたことがあります.
巨樹に逢いたくて人づてに聞いた下三永の福成寺(ふくじょうじ)を訪ねたことがあります. 西条盆地を見下ろす境内の巨木群をみて,この老樹達は幾世代にわたる人の世の変化を 四季の移り変わりと同じようなあたりまえの時間の推移のように見てきたのかもしれない という思いにおちいりました.

(8) 【里山の秋,栗,キノコ】  秋のなかば頃に作業の途中で自由に栗拾いのできる栗園のような場所に案内していただきました. 下見里山にこのような場所が公開されているとは驚きでした. おかげで何年かぶりにおいしい栗ご飯にありつけました.
秋の山道を歩いていると黄色い落ち葉に混じってキノコ類が沢山見つかりました. キノコは形や色や大小など多種多様で,さらに食べられるか食べられないかの違いまであり, 菌類に興味ある人は下見里山の面白さを十分に味わうことができるのではないでしょうか.
ただ私の故郷の雑木林では,アケビを簡単に見つけ出して道中の腹のなぐさめにできたのに, この地ではアケビの蔓すら見つけられないことに不思議な気がします. 地域ごとのわずかな平均気温の違いが植物相を変えているのかもしれません.

(9) 【神社,地蔵】  里山は単なる薪炭や材木を得る村人の生活の場だけでなく, 宗教的祭礼の場としても大切にされています. 山裾に神社が建てられ,祖霊に礼拝し,豊作を祈願し,村祭りで生活共同体の団結が はかられています. よそ者の私が散策中に社(やしろ)の前を通るときは失礼のないように気をつけています.
鏡山の麓近辺だけでも『氏神社』,『為實八幡神社』,『鏡谷神社』の三社 もあり,どの神社の境内も掃き清められているのを見て下見の人々の宗教的な思いが察せられました. 神社に関しては私の故郷でも同様ですが,私が下見で驚いたことは別のことです. 織田信長と争った大阪の石山本願寺を支えたのは一向宗の農兵ですが, その農兵を送り出した主な地域は,この安芸国と北陸の加賀と私の故郷である越中でした. 私が下見に赴任することが決まったとき, その地に『進者往生極楽 退者無間地獄』(進まば往生極楽、退かば無間地獄)と記された 一向宗の軍旗があることを聞き知っていて因縁を感じたものでした.(後に軍旗があるのは竹原の寺ということでした.) 同じような宗教的な背景があるのに,下見地区を散策していて故郷と大きな違いを感じたのは, 野に地蔵尊が無いことでした.(後に,下見鴻巣に地蔵堂が一つあることを昔からの住民の方に 教えていただきました.)
私の故郷では,大げさなことを言えば,道の大きな辻ごとに地蔵堂や石仏がありました. お盆にはお地蔵さんの前にゴザをひいて子供達だけで地蔵盆のお菓子を食べました.
里山を観察しながら遊歩するのは,地域ごとの特色や違いを知り, 日本の豊かさを感じないではおれず,誠に楽しいことです.

     【里山トレッキングの勧め(0)】

各山の紹介を順次行います。それぞれの予定は概略、次のようです。

1)「二神山」下見里山の多くには、戦国時代の山城跡が残っています。中でも二神山城は最も古く平安時代末期になります。里山全般の諸問題を俯瞰した前報”散策”を引用したコメントを記し、山道が比較的に良く整備されている二神山への誘いを記す。
2)「八幡山」里山への入山目的((次稿)で記す)が消失した今、殆どの全ての里山の里道は消失しています。山を知り、山を好きになれば、山へ行きたくなります。五感を通して得られる心身の癒し効果も、相乗作用で増大します。八幡山の山道はかなり荒れていますが、 同好者が多くなれば里道への変貌は遠い話ではありません。
3)「陣が平山」里山の春夏秋冬について私見を述べ、陣が平山の頂上は、麓にある広大付属幼稚園の野外活動の場所であるため、「南側の歩行は慎むよう」記した。里山活動の一つの柱に、幼稚園から大学までの「遊学の里」を入れるべきであるとの認識を持った。また、里山の樹種としては「落葉広葉樹」が適していること、山の持つ機能と役割についても述べています。
4)「鏡山」私達の活動場所「5座6拠」(既出の山4座+ガガラ山+広島大学)の選定理由について記した。下見村はこれ等の北側に発展した村であった、南側へは山越えが必要で、鏡山公園でさえ僻地であったこと等を記した。山の南東側にあるサイエンスパークから、鏡山への登山ルート3つについて紹介します。
5)「ガガラ山」ガガラ山に城跡はありませんが、石器時代から縄文時代にかけて、数万~数千年前にかけての遺物が出土しています。古代から食料の調達に便利で居住に適した場所であったと推察され、この状況は現在にも通じるように思えます。ガガラ山にある幾つかの古墳見学を組み入れたトレッキングモデルコースを紹介します。
6)「広島大学」やまの歌「坊がつる賛歌」の元歌は、「広島高師の山男」です。広島高等師範は教育学部の元祖で、ここ出身の教師は、中国・四国・九州で多くの学徒を育ててきました。広大の構成員数は、教職員・家族を併せると、優に3万名を上回り、「下見里山」は「遊学の里」でもあります。構内トレッキングに関連して建物配置を示し、ルートの選定は各自で行ってもらいます。広大構内が鳥瞰できる、二神山東ピークへの寄り道(+30分)を紹介します。    

     【里山トレッキングの勧め(1)】

先頭の稿「下見里山を散策して」(以下引用する場合”散策”と略記)では、下見里山の知見が多岐に渡り簡潔に述べられていました。この内容をつまみ食いして、聞きかじりの駄文を追加したいと思います。
下見里山5座、「八幡山」、「陣が平山」、「鏡山」、「ガガラ山」、「二神山」の内、私有の山は唯一「八幡山」のみであり、他の4山は全て公が管理しています。「鏡山」は東広島市が、「陣が平山」と「ガガラ山」は広島大学が、「二神山」は下見財産区がそれぞれ管理しています。したがってホームページの赤字注意事項 で特に気を付ける必要のある山は八幡山であり、その他の山では、ワラビ採集程度の行為は許容されるものと思われます。
「八幡山」の麓にある三ツ城古墳は、国の史跡に指定されており、広島県では最大規模の古墳で、5世紀前半(古墳時代中期)頃の築造と推定されています。 里山エリヤでは、旧石器時代~縄文時代の遺構・遺物が多数検出されており、市の埋蔵文化財管理センターで調べることが出来ます。特に、「陣が平山」、「ガガラ山」、「広大構内」における遺跡出土物等は、広島大学博物館埋蔵文化調査室の展示室で見学可能です。

”散策”における山城に関して
ガガラ山を除く4座は戦国時代の城蹟であり、それらの概要は、「城郭放浪記⇒検索」で観ることが出来ます。中でも鏡山城跡は国指定の史跡であり、多くの人々が散策に訪れ、サクラの開花時には花見客で賑わっています。ではありますが、あえて二神山に焦点を当て、この山に関する聞きかじりを披露したいと思います。
二神山城はこの地では最も古く、平安時代末期(鏡山城より150年以上前)に建造されたようです。時代背景を、この地との関連で、模式的に示せば、
源・平(京都)→平家(平清盛1165頃 厳島神社)→源氏(1185頃 二神山)→鎌倉・戦国時代(1350頃 鏡山)となり、「八幡山」、「陣が平山」さらには外輪山の「曾場ヶ城山」、「槌山」が続きます。風聞によれば、山城二神山から「下に見える村」→「下見村」となったのだそうです。

”散策”におけるクリ、キノコ等に関して
二神山は区有林であり、これらの採取は自由です。タケノコ、ワラビ、ゼンマイ、コゴモ、タラ、コシアブラなども、山林の維持・管理に支障が無い限り、これらの採取には特に制限されることはありません。クリに関して、約50本ほどの栗林があり、シバ栗も散在しています。食用キノコとしては、ハナイグチ、アカヤマドリ、アミタケ、タマゴタケ、シイタケがあります。毒キノコがありますので、むやみに食することは絶対にしないでください。個人的な話ですが、下見在住40数年、当地へ来た当座には“松茸”が多量に生えていました。広島大学が下見に移転(1982年)して2,3年後、1985年頃には消失しました。
タケノコは、”散策”における竹林の荒廃に照らしても、積極的に採取してもらうことが歓迎されています。

”散策”における放置林に関して
一般的に、1975年頃までの里山は地域の人々に親しまれ、多目的に活用されていました。 入山の目的は、営林、水利(飲用・水田)、資材・用材・食料などの調達、娯楽(山菜取り、キノコ狩り、ハイキング、花見、お祭りetc.)など多様でした。近年里山への入山者は激減していますが、その理由としては、次のようなものが考えられます。
営林が廃れた状況は”散策”で指摘されています。ガス・電気・石油の普及によって飯炊きなどの燃料を山で調達する必要が無くなった。水道も普及し、水利の目的は、ほぼ農業用に限定されるようになった。農作業などで必要とした雑木や竹材は、プラスチック製品などの市販品で手軽に間に合うようになった。山菜も、季節を問わずに購入できる市販野菜の方が、手軽で便利である。村社会⇒都市社会への移行。手軽な娯楽は氾濫しており、面倒な近所付き合いは避ける傾向となり、お祭り騒ぎは煙たがれるようになっていること。つまり、当初に記した入山目的がことごとく無くなったか、あるいは薄れてきたことにあると思います。

【里山トレッキングの勧め】
里山への入山目的が消失しているとしても、里山の持つ心身の癒し(セラピー)効果は絶大です。リモートワークなどで蓄積した脳、目、心身の疲れをいやし、明日への活力を溜めるため、里山トレッキングをお勧めします。
その手始めとして、山道が良く整備されている二神山へ行ってみてください。

(追記:主観に基づく私見を述べました。へんてこと思える言辞は、まゆつば物として無視してくださるようお願いします。)
     

    2021年3月30日

67歳で仕事を全て引退し、年金生活の退屈対策と健康増進のため、家を起点にして10キロ程度の散歩コースをいくつか「開発」していた。 その中には自宅から出発して温井川に沿って歩き、二神山を南側から登り始めて3つのピーク地を縦断し、東側出口で二神山を後にし、 自宅に戻るという約10キロのコースがある。このコースは数回の試行錯誤の後に「創り上げた」お気に入りの一つで、週一回は歩くようにしている。 このコースを歩き始めて、確か8回目くらいの2021年3月30日、普段はほとんど人と出会うことのない山中で一匹の大きな犬がじゃれついてきた。 野犬ではなさそうだと見ていると、すぐ後に私より少し年上と見える品の良い男性(以下、代表と略記)が「その犬は何もしません」と近づいてきた。この日こそ私と 下見里山活動との出会いである。聞いてみると代表は今まで二神山の管理責任のようなことをやられていたが、高齢のため、その職を他人に譲ると いう。私が二神山を散歩コースにしていると言うと、他に八幡山や陣が平山というのを教えていただいた。実はこの2つの名前は俄には覚えられず、 そのときに電話番号を交換したのが縁でその後の連絡で、2つの山の名前を再確認させていただいた。
定年に備え、近くの低山に登ることを計画していたので、カシミール3Dという無料配布とは思えない高機能のアプリをパソコンにインストールしていた。 このアプリには素晴らしいプラグインも開発されており、カシミール3Dを使うのに必要なデータも含めて準備をしていた。 準備していたデータの中には25,000件以上の山名、峠名などを 収録したものもあり、国土地理院の地図には無い山名なども含まれている。この山名リストに含まれていて簡単に行くことの出来る 低山を制覇することを当面の目的とした。 その第一号は薬師山(273m)でこれは10分程度で頂上に到着してしまった。続いてその隣の獅子岩山を目指したが、ここは陸上自衛隊の管理地に なっており、入山できず、早速に計画が頓挫してしまった。それでは登山可能な低山をと計画を縮小し、曾場ヶ城山、水丸山、田房山、龍王山、八世以山などを 次々に「制覇」した。龍王山の隣に鷹巣山というのがあるが、これは頂上が良く分からず、データロガーの記録と国土地理院との地図を突き合わせ 頂上踏破と勝手に認定した。
代表に教わった八幡山、陣が平山は残念ながら山名データベース(10年以上前にダウンロードしたもの なので現在はどうか不明だが)には無かった。自分の低山制覇計画には無かったが、八幡山をターゲットにし、2021年4月9日に データロガーを持って山への取り付きと思しき場所から登った。 下りはどういうわけか幼稚園の敷地に入り込んでしまった。幸い幼稚園が休みのためか警告音は鳴らなかった。 不審者が山から侵入することは想定していないのだろう。しかし道路側のドアは施錠してあるのではと一瞬たじろいだ。 幸いにドアは内側からは解錠できるようになっていたので外部に出ることが出来た。家に戻ってから データロガーの取得データをカシミール地図にマップしたものを代表に送った所、登ったのは陣が平山であることを教えてもらった。
子供が小さい頃、鏡山公園に時々遊びに行き、たまに鏡山の頂上まで登ったことがあるが、いつもブールバールを挟んだ向こう側の山は登れるのだろうかと 思って見ていた。それが陣が平山や八幡山であることがこの時やっと分かった。これで私の意識が下見里山につながったと今では思う。 そして2021年4月20日に今度は代表からのアドバイスを参考に八幡山登山に再挑戦した。八陣通りの峠付近に取り付きのようなのを見つけ、 そこから登り始めるとやがて檜植林の記念碑のようなのがあり、もう少し登るとピンクリボンを見つけた。これが代表の取り付けたものであることは 直ぐに想像できた。時々見つかるピンクリボンを参考に尾根線を登っていくとやがて給水塔が見えるところに出た。ここで陣が平山の下山の時に 迷い込んだ幼稚園のことを思い出した。不用意に給水塔の敷地に入り込むと今度こそ派手に警告音が鳴り、ガードマンが飛んでくるに 違いないと思い、そこから引き返した。引き返す時も大変だった。もと来た道がすぐには分からず、さまよった挙げ句にやっと山から出ることが出来た。 リベンジすべく、4月27日も八幡山に登った。今度は谷筋を極めてやろうと、あちこち迷ったが結局は縦断道を見つけることが出来ず、下山した。 このときのデータロガーのログを代表に送ったところ、「立派な藪漕ぎ者」と褒められてしまった。これで完全に下見里山活動に参画することになった。
2021日5月6日に今度は代表と代表の知り合いを含めた3名で八幡山に登ることになった。但し、このときからは里山活動として山道を大げさに言えば 開拓しながら登ることになった。持参すべき道具としてホームセンターで買ってほとんど使っていない鎌を持っていった。代表の持参なさっているものは ナタ(正確には山ガマというものらしい)だった。正直な所、私は鎌とナタとの違いを知らなかった。山の作業をするにはナタの方が良いらしいが、 初心者の私は今でも鎌を使っている。 やがてもう一名の参加があり、今では4名で里山整備活動を行っている。下見里山には5座あるが、活動の主力はやはり八幡山にある。この山を 整備している時に気づいた第一印象は石を積んだだけであるが古代人の墓が多数あるということである。ということは多くの古代人がこの山に 埋葬されていることになり、夜には多くの人魂が飛び交うのではと想像をたくましくするとともに、暗くなると怖くて歩けないとも感じた。
山道を整備していると不思議と疲れを感じない。山道の登り降りで体力を消耗するはずであるが、疲れを感じないのは木々から出る セラピー効果に依るのか、それとも古代人からのテレバシーのためか分からないが、健康に良いことは間違いない。整備と言っても山道を塞いでいる 木を最小限切るだけであり、木々の一本一本が山の財産であることは心している。それにしても私は木の名前を知らないものだと実感する。 代表から説明があるのだが、すぐに忘れてしまう。自分でメモするなどしなければ身につかないということを改めて知らされた。
2021年3月30日に代表と「運命的な」出会いをしたのは私が二神山を含む散歩コースを歩いていた時である。これ以外に定期散歩コースとして 5種類ほどの10キロ程度の散歩コースを持っている。これらの中には自宅から八陣通り、ブールバール、国道2号線側路と八幡山の裾を回って戻って くるコースもある。何れは八幡山の裾を回る代わりに八幡山を縦断するコースに変更する予定である。これで二神山での縁を八幡山にも吹き込む ことができ、私の下見里山活動が新しい段階に入ることになる。言うまでもなく、この八幡山散歩コースは明るい時にのみ歩くことにする。

     【里山トレッキングの勧め(2)】

八幡山の山道は、昨年(2021年)の始めには、ほとんど消失していました。
シンボルである頂上の祠へ至る道すら、雑木に覆われて通行不能の状態でした。
これは里人の入山目的が失せ、人々が里道を通らなくなった為であることは自明です。

ぶらりと山へ散策にでも、と思う人が少しでも増え、その人が里道散策に定着するためには、里道が歩き易いことと、歩きながらが五感を通して得られるセラピー効果が大きいことが必要です。草木の花、チョウチョやトンボが飛び交う野原、メジロやガラのさえずりなどなど。これらを観たり、聴いたりできる環境は、散策する人々のちょっとした心がけで少しは改善できそうに思います。一言に草木の花と言っても、散策を重ねるたびに新たな発見や喜びが得られます。例えば、筆者が良く行く二神山では、秋の七草【クズ、ハギ、オバナ、オミナエシ、キキョウ、ナデシコ、フジバカマ】の内、ナデシコは未だ見つからない。オミナエシは2か所で観られますが、群生するはずなのに1株ずつしか見つからない(印をしてでも保護すべきですが、印がかえって仇となりかねない)。絶滅危惧種のキキョウは特定の3ヶ所でしか見ることが出来ない。などなどである。このような新たな発見が、次の散策・入山意欲を誘発します。里山は歩くだけでも、けもの道のように、踏み跡がより確固たる山道へと進化するはずです。が、さらに、歩きながら通路を邪魔する枯れ木などを除外してやれば、後続する散策者の歩行は随分楽になります。また、このような作業によって自分自身も清々しい気分に浸ることが出来ます。

八幡山の里道は、さとみちと呼ぶにはかなり荒々しい道ですが、小学生の高学年なら楽勝(保護者同伴)と思えます。この山が踏破できれば、下見里山トレッキングは、どの山を対象としても自由自在に行えるものと思われます。道が比較的よく整備されている鏡山(公園上西部)やガガラ山などの散策経験を踏んだ後にでも、是非試行してみてください。
  

     【里山トレッキングの勧め(3)】

春夏秋冬、里山は四季折々、様々な景色を見せてくれます。中でも春と秋は、私の好きな 季節です。
夏は気温も高く、マムシや蚊が散策の意欲を委縮させ、県外への登山や、川・海の水遊びに向かわせます。しかしながら、近場の里山でも、二神山の裾を流れる温井川があり、涼を求めてこの付近の散策も悪くはありません。清流の宝石と称されるカワセミが姿を見せ、滝の淵には錦鯉も泳いでいます。10数年前にはホタルも飛び交っていました。カワニナを育てて、ホタルの復活を夢想するのも一顧。
冬の寒気は、寒がりの私にとって行動を躊躇させます。が、一旦山へ向けて動き出すと、落ち葉を踏みしめての山道は、さとの田畑の見通しも良く快適です。ため池には多くの水鳥が餌をついばみ土手では羽を休めています。欲を言えば雪道も望ましいのですが、この地ではシーズン中1,2回降雪に遭えれば良い方で、全く積雪が無い年もあります。
春は草木が芽生え、小鳥や昆虫が活発に活動を始めます。ワラビやゼンマイ(この地では少ない)、タケノコの採取が出来ます。と言っても、後処理が面倒なので、ずぼらな私は、この採集はシーズン1,2回です。ニオイコブシ(タムシバ)を始めとしてヤマザクラが彩を添え、シュンランの草花も顔をのぞかせます。春は、野山はおろか国中の諸機関が胎動を始めます。父兄同伴の学生達が目立つのもこの頃です。陣が平山の麓にある幼稚園でも、年長の園児が得意げに幼児と遊んでいます。陣が平山の頂上付近は、園児の野外活動場所として利用されています。山の南側(幼稚園側)への歩行は慎みましょう。なお、北西側山麓は下見村の中心で、村社(稲荷神社)があり、福祉会館の場所は下見小学校(60年程前に廃校)の跡地です。
秋はコスモス・収穫の時季。里に敷かれた緑のじゅうたんが、黄金色に衣替え、ところどころはがれる頃、待望のクリ拾いが出来るようになります。巷には美味しいお菓子は満ち溢れていますが、栗ご飯の味は格別です。ただ、これも手間ひまが掛かり、その役は自分に回ってきます。で、これもシーズン1,2回。

里山には種々雑多な動植物が住んでいます。空気・水・食べ物・ねぐらが必要です。
人間も例外ではありません。植物は光合成によって炭酸ガスを吸収し、酸素を放出しています。炭酸ガスは温暖化の元凶と言われています。山に降った雨水はなるべく長く滞留する方が、動植物、人間にとって有利です。空気、水の観点から野山の植生を考えるとき、空気供給⇒新陳代謝の大きい植物、水の滞留⇒落葉広葉樹、が思い浮かびます。竹林の下は乾燥しており、ミミズやモグラは居そうにありません。スギ、ヒノキの人工林の下では、動植物の多様性は貧弱そうです。落葉樹林は明るく、小鳥たちの喜ぶ木の実を付け、落葉は雨水の滞留・浄化に役立ちそうです。素人目には、里山の樹種は「落葉広葉樹」。営林目的であれば、栗などの果樹、あるいはシイタケ栽培用原木として利用されているクヌギやコナラが良さそうに思えます。冬季の落葉樹林の見通し・見晴らしは抜群です。
森林が担っている役割や機能として、
 1.多様な動植物が、山を生存場所として利用している
 2.炭酸ガスを吸収し、清浄な空気を供給している
 3.水を貯蔵し、浄化している
 4.風水害の影響を軽減し、防災の役割を担っている
 5.木材や鉱物、食料等を産出している
 6.快適環境・景観を提供している
などが考えられます。

会員の雑感(2)に続きます。

元の場所に戻ります。